top of page

Pan American 1930

こんな時代だからこそノスタルジックなフライトの旅に出かけたいと思うのは私だけだろうか。


北米では、1920年代後半から1930年代にかけて、チャールズ・リンドバーグを顧問に、フロリダ州からカリブ海路線以外に、アルゼンチンチリメキシコブラジルなどの南アメリカへの長距離国際線の路線網を探索・開拓。


1930年には、アラスカ経由で日本中華民国へと向かう太平洋横断路線の開設をもくろみ、北太平洋航路調査のために顧問のリンドバーグ夫妻にアラスカ経由で日本に向けての調査飛行を行わせる。


リンドバーグ夫妻は翌1931年に、ニューヨークからカナダ、アラスカ、日本を経て中華民国までロッキード水上機シリウス号で飛行。途中8月23日には国後島8月24日には根室市、26日に霞ヶ浦、その後大阪福岡を経て、中華民国の南京漢口まで飛行した。


妻のアン・モローの著書『翼よ、北に』にその記録が記されている。


しかし、アラスカから日本に至る航路の途中で、ソビエト連邦領であるカムチャツカ半島とその周辺の島嶼へのテクニカルランディングが同国政府から許可されず、断念。


サンフランシスコからハワイミッドウェイ島、アメリカ植民地フィリピンなど、アメリカの領土内もしくは統治下の地域を経由して、アメリカ租界のある上海へ向かう路線の開設を検討。


1933年には、中華民国の上海と広州間を運航する中國航空公司(CNAC)を買収。


その後1935年4月には、シコルスキー S-42飛行艇で同ルートの調査飛行を行い、同年11月には、マーチン M130「チャイナ・クリッパー」飛行艇によるサンフランシスコ-マニラ間を結ぶ太平洋横断路線を開設した。


この路線はサンフランシスコ―ホノルル―ミッドウェイ島-ウェーク島-グアム-マニラのアメリカの領土、もしくは植民地などの統治下を飛行するルートで開設され、その後イギリス香港まで延長。


キューバのクバーナ航空や、ブラジルのパンエア、メキシコのメヒカーナ航空など、それらの国々の航空会社を次々と買収しその路線網を拡充していく。


1929年には当時アメリカとカリブ海沿岸諸国、南アメリカ諸国を結ぶ客船ルートを多数運航していたアメリカのグレース・シッピングと合弁会社のパンアメリカン・グレース・エアウェイズ(「パナグラ(Panagra)」として知られた)を設立し、客船との接続ルートを運航。


アメリカ発のオセアニアへの直行ルートとして、1937年にはサンフランシスコ=オークランドニュージーランド)間をホノルルやパゴパゴ、フランス領のパペーテなどを経由して結ぶ路線を開設するなど、南太平洋にもその路線網を拡大した。


19世紀に発達した大型帆船を意味する「クリッパー」の呼称がパンアメリカン航空の数多くの機体に愛称として用いられ、パンアメリカン航空自身のコールサインやビジネスクラスの祖といわれる「クリッパー・クラス」にもその名を残すこととなる。


飛行艇による空の旅に憧れる。 


1930年代にタイムスリップしてAEROCONCEPT VacanceとともにバハマあたりにVacanceに出かけたい。


きっと乗客の方々も2022年から来た洒落た職人に興味を持ってくれると思う。


出典:Wikipedia



Photographer : Kei SUGANO



bottom of page